煙火の起源
・煙火の起源 花火はこうして生まれた!!
先人たちの勘と、冒険的な努力によって創り出され、夜空を彩ってきた美しい花火。
古来より多くの史家が歴史や沿革について研究してきましたが、その軍事的な秘密性をもって秘伝書、または口伝えで伝承されてきたためにあまり古文書、文献が見当たらないのが現状です。
その起源についても諸説あるため、ここでは代表的な六つの説を紹介します。各説が絡み合って今の煙火のかたちになったのかもしれませんね。
・烽燧(ほうすい)説
烽燧の「烽」は煙、「燧」は火を意味しており、別名「飛ぶ火」と呼ばれた狼煙(のろし)台による通信システムのことです。これは664年、唐の制度にならい冠位制度と同時に北九州および朝鮮沿岸に設けられ、外敵の侵入をいち早く朝廷に伝える役を担いました。
894年まで240年続いた烽燧は、廃止された後も「飛火野」や、「飛火ヶ岡」として各地に名を残しています。その中でも特に。大和国春日(今の生駒山麓)の飛火野は古より歌の中に詠まれてきました。 この烽燧の任にあたったのが防人(さきもり)でした。彼らは東国の地、美濃、尾張、三河、駿河、さらに越前、相模より夕張の山(鈴鹿山脈)を越え、難波の港から遥か北九州まで出向していったのです。ここで三河の住人は火術を体得し、三河花火として発展させていったのです。
・狼烟(ろうえん)説
1467年、応仁の乱から1600年、関が原の戦いまで続いた戦国時代の各合戦に使用された狼烟。 この狼烟とは、のろしのことであり、烽燧に狼の糞を混ぜて用いたことからこの名がついたそうです。何故狼の糞を混ぜるのでしょうか?実は肉食動物の排泄物には尿素、アンモニア、アミン類を多量に含み、それが長時間風雨にさらされると酸化され、土中の硝酸バクテリアによって硝酸塩に変化し、火薬の原型になったのです。当時、日本や中国において狼はポピュラーな肉食動物であり、この古くなった糞を手に入れるのは容易でした。よって狼烟と呼ばれるようになったわけです。当時はまだ日本オオカミが生息していたんですね。
1542年以後、西洋から鉄砲が伝えられ、同時に硝石が日本に輸入されるようになりました。これ以後は西洋火薬が使用され始め、煙硝を穴に詰め空に向けて発煙されるようになりました。
一筋の狼煙にかけた戦国武士の情熱が、単純な烽燧を狼烟に変え、更に鉄砲の伝来と共に火薬の調合が伝えられ硝煙のの研究はどんどん発展していきました。
そして狼煙は下で説明する火箭(かせん)と相まって流星と呼ばれる花火を生み出しました。これらの秘伝書が「○×流 合図の覚」などとなり秘密性を保って戦国時代に伝承されつづけ、煙火となったのです。
・鉄砲・火毬(てっぽう・ひまり)説
1274年蒙古元軍が北九州、博多に来襲した際に使用した鉄砲および火毬が起源だとする説。
ここでいう「鉄砲」とは中国式鉄砲のことで現在の西洋式鉄砲とは構造を異にしたものです。
それでは、火毬とはどんなものだったのでしょうか?実は火毬というのは、様々な用途に用いる火薬武器の総称であったようです。撤退時には煙幕、攻撃には焼夷、轟音を発するものが使用されました。この火毬の投てき器が鉄砲と呼ばれるものでした。
火毬の作り方を説明します。火薬を丈夫な紙5・6枚で包み、麻で縛りこれに松脂、ろう等を溶かして上から塗り、使用にあたっては外皮に点火し、それを投てき器より投げ出したのです。当時使用された火薬は木炭の代わりに湯詩文が使用され、爆発性というよりもむしろ燃焼性が大きかったといわれています。後に火毬は打ち上げ煙火の玉の源となりました。
別に火槍というものも存在し、これは有底の筒の中に火薬を詰めて使用したのである。紙製の筒のものを飛火槍、竹の筒でできたものを突火槍、木製のものをマドファといいます。ちなみに中国では小銃のことを槍と言います。
・火箭(かせん)説
戦国時代の三河武士によって駆使された火箭を起源とする説。蒙古襲来後、200年を経た1467年に京都を挟んで全国の武士が東軍・西軍に分かれて戦った応仁の乱という戦がありました。この時、東軍の細川勢が使用した新兵器が火箭です。この細川成之こそが、時の三河の領主でした。この火箭が工夫され、三河花火として進歩していったのです。
火箭の技術は流星を産み、この三河にしかみられない花火、流星こそ煙火のはじめであるといわれています。この火箭はやがて噴出花火となり手筒、大筒、さらに乱玉、スターマインなどの原型となりました。
・燃土(ねんど)説
1457年狼烟がのろしになる過程において、非常に重要な歴史的事実が存在します。これが1457年、江戸築城に際し太田道潅によって発見された燃土です。
道潅は江戸に築城するにあたってつぶさに江戸の土地を調査し、その地質が火のつきやすい燃土であることを発見しました。この年度こそが硝石だったのです。これに麻殻の灰と硫黄とを混ぜ合わせて砕き、焼酎で練り固め、細かく刻んで十分に乾燥し、この火薬を木筒につめて空高く打ち上げたのです。これを見た人々はこれを「流星」、あるいは花の散る様にみたてて「花火」と言ったのです。道潅は中国から京都を経て伝わってきた硝石製造法をおぼえ、狼烟に改良をくわえたのでした。
太田道潅の霊祭には煙火が打ち上げられ、1659年には隅田川に両国橋がかけられ川開き煙火が上がるなどし、煙火は発達していったのです。
・種子島鉄砲伝来説
1543年、種子島に伝えられた鉄砲およびそれに伴う火薬を起源とする説です。日本における鉄砲の発展史はそのまま煙火の発展史といえるほど両者の関係は密接です。
1510年には中国製鉄砲が伝来し、1528年には堺において製造されていたといわれています。これらは長さ30〜40cm、重さ2キロほどの青銅製のもので、轟音と閃光で人馬を驚かせ戦意を喪失させる程度のものであったそうです。
その後、ポルトガル人によって種子島に今の西洋式鉄砲が伝えられたのです。同年には日本に大砲が存在していたことが知られています。そして徳川300年の平和の所産として、煙火に形を変えて発展していったとされています。
※参考文献
三河花火史 『昭和44年9月25日発行 発行者愛知県煙火組合
編集三河煙火史編集委員会 印刷所 (資)永田印刷所』より抜粋