色々な花火の成り立ちと三河花火

  花火の歴史を総括し、近代いかにして発展したかについてまとめてみます。
まず外敵の侵入をいち早く朝廷に伝えるために海岸部に設けられた単純な構造の烽燧に始まり、元軍の襲来という一大事によって中国火薬が導入されました。太田道潅などの武将によって改良が加えられ軍事的武器としてのろし、火槍と言ったかたちで発展します。

  西洋式鉄砲と火薬の伝来は、のろしに技術革新をもたらしました。鉄砲は大筒を生み出し、発射技術は攻撃用、合図用に応用されました。その発展に助けられ中国式鉄砲・火槍は火箭へと進化し、火薬に関する技術はどんどん発展していきます。

  三河地方では、応仁の乱の古きより火槍が使われるなど火薬がよく利用されてきました。さらに徳川家康が火薬の主原料となる硝石の採取を三河に限らせ、三河に限って貯蔵・製造を奨励したことが三河花火の発展に多大な影響を与えています。
  
   徳川300年の太平の世の中で煙火の軍事的重要性が弱まり、火術の奥義は地方に伝播していきました。このようにして三河武士の火術は神秘性を保ちつつ民間に伝えられ、庶民の神への信仰心と相まって祭礼用献上煙火となっていったのです。現代においてお祭りなどではよく花火が揚がるのは、あこういう理由があるからなのです。未だ解決しないなぞの多い煙火の起源ですが、どうやら三河地方ではじめられ、発展していったということは事実であるというのが定説です。
  
   近代に入り、1786年の塩素酸カリの発見、1860年のマグネシウムの発見は花火に大きな影響を与えました。明治にはいってからそれらは日本に紹介され、より強い光が表現できるようになり、花火が現在のように美しくなりました。塩素酸カリを含んだ煙火を洋火、それに対して硝酸カリを主とするものを和火をいっています。江戸時代の研究を土台にして、明治時代以後美しく進化した煙火が、”煙火の黄金時代”をつくりだしたのです。

※参考文献
三河花火史 『昭和44年9月25日発行 発行者愛知県煙火組合
編集三河煙火史編集委員会 印刷所 (資)永田印刷所』より抜粋